一般コラム
街紹介

<墨田区>下町と世界一が楽しめる「向島」

<墨田区>下町と世界一が楽しめる「向島」
皆さん、こんにちは。
11月の後半に差し掛かろうとしていますが、
ようやく秋めいてきましたね。
しかし都内でも、普段なら木々も色づき初める頃ですが、
今年はもう少しかかりそうです。
気づけば、来月で2018年も終わり!
もう少しで、何かと忙しい師走に入りますが、
皆さん体調管理にはお気を付けください。
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さて、第7回目の場所は
東京都墨田区「向島地区」です。
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  現在の墨田区向島地区は
墨田区向島地区は、隅田川沿いに位置し
隅田川を渡れば、浅草地域にも行け
南側には東京スカイツリーがそびえ立っています。
周辺を散策すると、建物の間から、いつもスカイツリーが
このように望めます。
~街並みとスカイツリーの写真~
周囲に高い建物がない分、
その大きさには圧倒されます。
向島地区は川沿いには高層の集合住宅が建ち並んでいますが、
中に入ると、下町感漂う閑静な住宅街です。
交通は東武スカイツリーラインの
「曳舟駅」・「東向島駅」・「鐘ヶ淵駅」が
利用可能です。
東京メトロ半蔵門線に直通しているので、
「大手町」や「渋谷」にもアクセスが良好です!!
曳舟駅の近くにはイトーヨーカドーがあり
複合施設として、賑いを見せています。
私がいった日は、秋晴れの日で
言問橋からは綺麗なスカイツリーの写真が撮れました。
~言問橋からの写真~
東向島には「向島百花園」があり、
園内にはたくさんの植物が植えられています。
少し色づき始めた木々が
とても綺麗でした。
特にススキは見ごろを迎えており、
秋らしさを一層感じることが出来ました。
  さて、向島にゆかりのある人物とは、、、、、、
榎本 武揚
(1836年~1908年)
榎本武揚は1836年に当時の江戸下谷御徒町(現在の台東区浅草橋付近)
で幕臣「榎本武規」の次男として生まれました。
この榎本武揚ですが、明治2年の戊辰戦争終了時まで、
旧幕府軍として抵抗を続けたにもかかわらず、
異例の経歴を辿っていきます。
では、大政奉還前から少し遡ってご紹介します。
榎本は、幕臣時代に長崎の海軍伝習所で勝海舟のもとで、
海軍の知識を学びます。その後、江戸幕府が戦艦「開陽丸」の
発注をオランダに行ったことを機に、オランダに留学します。
その際、パリやロンドンにも足を運び、出来上がった「開陽丸」と共に
リオデジャネイロを経由して帰国します。
この時代にしては貴重な体験をしていますね!
帰国後は、幕府海軍の指揮官となって、
戊辰戦争を最後まで戦い抜くことになります。
戊辰戦争では、最後まで抵抗を続けて、北海道は函館まで戦いを続けます。
しまいには「蝦夷共和国」を建国し、選挙で総裁に選ばれ、
統治を開始します。この時、蝦夷共和国の陸軍奉行である、
新撰組の副長「土方歳三」と行動を共にしています。
持ち前の外国語を活かし、諸外国に独立国家として認めてもらえるように
尽力しますが、支持を得られず、そんな中、箱館五稜郭の防衛線で指揮していた
土方歳三が戦死してしまいます。榎本はその6日後に新政府軍に投降します。
降伏後は明治新政府に拘束され、2年半投獄されます。
  明治新政府時代
普通ならば、死罪となってもおかしくないですが、榎本は元薩摩藩士の
「黒田清隆」らの助命嘆願によって釈放され、
その後は明治政府の閣僚となり、大出世を遂げていきます。
これには明治政府の役人の一部が、榎本の外交技術や海軍の知識を
大きく評価していたことが大きく関係しているようです。
幕府時代から諸外国を廻り、外交や語学に優れ、当時の誰よりも
西洋文化を知っていた榎本武揚は、西洋化を進めたい
明治新政府には、とても欲しい人材だったようです。
その予想は見事に的中します。当時は世界的に無名な日本でしたが、
大国ロシアと条約(千島・樺太交換条約)を締結するなど、
早速才能を発揮していきます。
その後も明治政府に仕えた榎本は内閣制ができた後、
外務大臣や文部大臣を歴任し、近代国家の発展のために尽力します。
この向島は、晩年榎本武揚が住居を構えた場所になります。
明治38年から亡くなる明治41年までこの地で暮らし、
隅田川沿いを馬で走っていたといわれています。
隅田川沿いの桜並木 言問橋から
また、先ほど紹介した、「向島百花園」にもよく散歩で訪れたようです。
榎本は諸外国を廻った経験から、外国の花にも詳しく
百花園の主人に教えていたとも伝えられています。
この百花園からもスカイツリーを見ることができます。
さらに鐘ヶ淵駅の近くには榎本武揚の銅像があります。
銅像
この銅像は彼の死後、大正2年(1913年)に建てられたそうです。
銅像は隅田川の方向を向いているのですが、
残念ながら都営住宅が建っている関係で、
今では大好きだった隅田川を望むことはできなくなっています。
  最後に
榎本武揚は幕府側の人間としては珍しく、
明治新政府に重用され、しかも出世をしていきます。
それは榎本自身が専門性をきわめて、
誰もが(今回の場合、敵の新政府の人間でさえも)認めざる得ない
知識や技量を身につけていたことからこそだと思います。
これは現代においても大事なことですね。
こんな榎本には多くの批判もあったようで、
特に同じく幕臣「福澤諭吉」は、彼を痛烈に批判したそうです。
「徳川のおかげで、自分があるのに」と、、、、
こんなこともあって、あまり英雄扱いされることがなかった
榎本でしたが、明治政府時代の功績はとても大きいものでした。
諸外国との条約締結など、日本が世界に認めてもらえる礎を作ったのは
この島国、日本ではとても大きいことだと思います。
今回は榎本の功績を、少ししかご紹介できませんでしたが、
まだたくさんありますので、一度調べてみてはいかがでしょうか。
そして、榎本が晩年過ごした向島。
今回、初めての訪問でしたが下町感を残しつつも
スカイツリーがよく映える街という印象でした。
あの高いスカイツリーを真下から見るものいいですが、
少し離れた向島から見ると、よりその大きさに圧倒されます。
都内でも各地で再開発が進んでいますが、
墨田区では、あくまで「下町地域」としての基本理念は曲げず、
より防災に強い街づくりをすすめていくそうです。
東京スカイツリーを訪れた際は、
是非、都市化が進む中で貴重な下町雰囲気が漂う
  向島地域まで足を運んでみてください。
今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました