一般コラム
街紹介

築地の由来

皆さま、こんにちは
オークラヤ住宅の田中です!


今月の街角エッセイは

 築地の由来 
」という言葉には、
人工的に作り上げたという意味が多く含まれます。
築く
すなわち埋立地ということです。
築地の地名の由来には
明暦3年(1657年)に起きた、明暦の大火(振袖火事)が
大きく関係します。
3万人~10万人が亡くなったこの火災で
築地本願寺の前身で、
浅草海辺御坊」とも呼ばれていた
本願寺別院も焼けてしまいました。
(築地本願寺)
焼失後、同じ場所での再建が認められず、
代わりに八丁掘の海が与えられます
幕府にしてみれば防犯防火対策や人口対策など
江戸の町を整備しつつも、
埋め立て工事の費用も安くすませることが目的だったのでしょう。
しかしながらこの埋立工事はかなりの困難を極めます。
波が荒くなかなか堤防を築くことができません。
するとある晩、
海面を光を放ちながら漂うものがありました。
付近の住民が不思議に思って船を出してみますと、
それは立派な稲荷大神の御神体でした。
住民達は畏れて、社殿を作りお祀りして
皆で盛大なお祭りをしました。
すると今まで強かった波風がピタリと止まり
工事はやすやすと進み萬治2年(1659年)完成します。
御神体が祀られた場所は、
築地の波除神社(災難を除き、波を乗り切る)として
今日に至るまで多くの人々に愛されています。
(波除神社)
✼ ・ ✼ ・ ✼
さて、築地市場の歴史も
この埋立工事完成の頃から始まります。
~ 江戸時代初期 ~
工事完成後の寛文4年(1664年)
日本橋魚河岸の魚問屋たちが願い出て
本願寺南側に町屋が開かれました。
ここから明石橋の間に開かれた町人地の水辺には河川が設けられ
魚介類も荷揚げされるようになります。
~ 江戸時代初期から幕末 ~
江戸時代の築地はほとんどが武家地でした。
現在の築地市場がある場所にも
当時は松平定信の下屋敷がありました。
その頃、
築地の河口部の立地の良さから廻船問屋が多く
また、武家と町人の居住が隣接していたことから
武家屋敷を相手にした商売として
米、済、薪、肴屋などの
問屋が集中して活気のある街並みでした。
その後、明治元年(1869年)には
外国人向けの築地ホテル館など、
幕末を象徴する施設が多数つくられます。
それから築地は外国人が多く住み始め、
異文化を多様に取り入れたハイカラな街へとなっていきます。
~ 大正か震災後 ~
大正12年(1923年)関東大震災
築地界隈も大きく様変わりしました。
区画整理による混乱で築地からは
かつての洋風の街のイメージは薄れていきます。
そして何より、
震災で焼失した日本橋魚河岸が移転してきたことが
築地を大きく変えました。
昭和10年(1935年)に開業した築地本場は、
魚河岸を起源とする水産物部
京橋の大根河岸を移した青果部から成り立ちます。
本願寺はもともと西南方向を向いていて、
参道に門前町を形成していましたが
震災により境内の多数の墓地が移転し、
そこに中央市場の盛況に合わせたように水産物商が入り
自然発生したのが場外市場です。
~ 昭和から現在 ~
現在の築地の敷地面積は約23ヘクタール
東京ドーム約5つ分の大きさです。
なかでも水産物の取扱量がすごく当たり約1700トン前後
世界最大級を誇ります。
築地でつけられた価格が全国的な取引の指標となっています。
昭和60年代に入ると老朽化・過密化が著しくなり
再整備の検討が進められ始め、
現在は豊洲地区への移転が進んでいます。
常に新しいものが生まれ、時代を築いてきた築地。
これからも魅力的な街として
私たちの暮らしに関わってくるでしょう。