
皆さま、こんにちは☀
田中です!
今月の街角エッセイは
■■ 要町の由来 ■■
江戸時代、
要町を中心に付近一帯は長崎村と呼ばれていました。
長崎村は村と言ってもかなり広大な村で、
現在の長崎、南長崎、千早町、千川、高松町、
目白・池袋・落合の一部と要町を含む、
広大な村でありました。
その長崎村の中心地で扇の要に等しいという事から
「要町」という町名がついたと云われています。
要町には、その昔からこんな話が伝わっています。
✼ ・ ✼ ・ ✼
うっそうと茂った森の中、
古い祠に白蛇が住み着くような神社がありました。

神社には弁天池という
「数字の8の形」をした池があり、
雨の降らない日照りの日が何日続こうとも、
池の底からは決して水量が減ることなく
こんこんと湧水が湧き出ていたそうです。

雨乞いの為、
池の掃除を村人が行うと
必ず雨を降らせてくれる大切な池でありました。
人々は古い祠や池を「弁天さま」と呼び皆で守ってきたそうです。
人々に守られた弁天さまの池には、
大きな鯉が悠々と泳いでいました。
ある時、
村の若者が酒に酔った勢いで、その鯉を食べてしまいました。
すると大変なことに、
鯉を食べた若者はその晩、物凄い腹痛に襲われます。
薬なども全く効かず、何をやっても痛みは治まりません。
それどころか益々痛みは増幅して
若者は衰弱していくばかり。
そこで若者は村の長老のアドバイスを受け、
神の遣いとも云われている白蛇に貢物をして、
食べてしまった鯉のかわりにもう一匹池に鯉を放し
必死に許しを乞うたそうです。
すると痛みは治まりましたが、
池にいた多くの鯉は
ぱったり姿を見せなくなってしまいました。
✼ ・ ✼ ・ ✼
という話が残っています。
現在の弁天池には鯉の姿が見られることから、
長い時を経てようやく許してもらえたのかと思われます。
この地にとっての水の尊さを感じられる話ですね。
この神社が今の粟島神社です。
要町の要(かなめ)の意味は、
地形の要に留まらず、
しきたりや礼儀の要の要素も
入っているのかもしれません。
