こんにちは!
今回の街角エッセイは神奈川県横浜市磯子区の
『磯子の由来』についてお届けします。
最後までお付き合い下さいね。
武蔵国久良岐(くらき)郡平子郷(現在の横浜市 磯子区、中区、南区付近)
に本拠地を持つ平子氏(たいらこし)の異名が、
磯子と呼ばれていたことからそれが地名になったという説があります。
平子氏はもともと関東の名族三浦氏の流れで、
中世末期に小田原北条氏が関東に進出するまで同地を領有していました。
平子氏の館は、真照寺周辺にあったと云われています。
その真照寺の本堂には「木造毘沙門天立像」
(横浜市指定文化財)があります。
真照寺は寿永元年(1182年)源頼朝の御家人平子有長が再興した寺で、
本堂にある毘沙門天像は有長本人を模したものと云われています。
平子有長という武人は「吾妻鏡」や「曽我物語」に登場しています。
建久4年(1193年) 源頼朝の催す富士の巻狩りに参加した有長は、
有名な「曽我兄弟の仇討」に遭遇します。
工藤祐経を討ち果たした曽我兄弟は勢いに乗って
そのまま頼朝の陣屋に乱入しますが
その時、頼朝の身辺警護をしていた有長が悠然と立ち向かいます。
有長は日頃から戦いの神様である毘沙門天を信仰しているので、
深手を負いながらも、一歩も引かずに戦ったのではないでしょうか。
磯子のすぐ傍に、海に迫る山が屏風を立てたように見えたことから、
頼朝が「屏風ケ浦」と命名した場所があります。
もしかすると、平子氏の異名「磯子」も、
打ち寄せる波に負けない磯の力強さと有長の豪勇さを讃えて
頼朝が名付けたのかもしれません。
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