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<文京区>故郷を思い「椿山荘」を作った元長州藩士

<文京区>故郷を思い「椿山荘」を作った元長州藩士
皆さん、こんにちは。
気がつけば、もう今年も残すところ2週間となりました。
暖かい日が続いたため、今が12月ということにまだ、慣れません、、、
そして最近、時間があっという間に進んでいくように思います。
会話で「年末~」や「新年~」など12月ならではの言葉を聞くと
「そうか、12月か」と思わされるこの頃です。
このままいくと、あっという間に新年ですので、
しっかりと今年にやるべきものは今年に済ませて
新たな気持ちで新年を迎えたいですね。
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さて、今回は文京区関口にある
「椿山荘」をご紹介します。
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現在は都内屈指の「結婚式場」や「高級ホテル」として
その名を轟かせていますが、昔はある人物の住居として
使われており、その人物が「椿山荘」と命名した経緯があります.。
その後、当時の藤田財閥に継承され、
現在のように結婚式場やホテルとして整備されていくことになります。
            第3代・第9代 内閣総理大臣 山縣 有朋
山縣 有朋
(1838年~1922年)
国立国会図書館デジタルより
山縣有朋は長州・萩(山口県萩市)で足軽以下の身分の低い家に生まれました。
幕末時は、尊王攘夷を目指す長州藩の京都での諜報活動に参加し、
その頃に松下村塾で学ぶ、伊藤博文(初代内閣総理大臣)に出逢います。
その縁あって、山縣自身も吉田松陰の松下村塾に入門します。
もともと、勉学より武芸を得意としていた山縣は
その後、高杉晋作率いる「奇兵隊」に参加します。
長州征討や下関戦争での活躍で頭角を現し、
高杉死後は事実上の奇兵隊を率いる立場になります。
そして、薩長同盟後は木戸孝允のもと、薩摩と倒幕活動を行っていきます。
時代が明治に代わっても、軍隊の主要ポストにいたのですが、
近代日本最初の汚職事件(山城屋事件)に関わり、失脚します。
当時の国家予算を私的に使い込んでいました。
当時は薩長土肥の間で権力闘争の真っ只中。
薩摩の士族組は山縣の罷免を要求し、役職を辞任することになります。
この時、最後まで山縣を守ったのが、一緒に徴兵制を唱えた
薩摩の西郷隆盛と言われています。
西郷隆盛:1827年~1877年(明治10年)
国立国会図書館デジタルより
余談ですが、NHKの大河ドラマ「西郷どん」は
12月16日が最終回ですね。
上の画像は西郷隆盛を表すものとして有名ですが、
これは「肖像画」で、西郷の写真は見つかっていません。
撮ってない説もありますが、真相はどうなんでしょうか、、、
その後、山縣は「明治六年の政変」で土佐・肥前組が下野したのを機に
大久保利通に重用され、再び政府の要職に就くことになります。
そして、明治10年、西郷隆盛が起こした「西南戦争」では
官軍の総大将として、現地に赴き、指揮を執ります。
不本意にも、西郷と成し遂げた徴兵制で集めた兵士たちを
引き連れて、慕っていた西郷と戦うことになります。
しかし、徴兵制で集めたもともと一般人だった兵士では
使い物にならず、徴兵制を唱えた山縣にとっては不本意ですが、
元武士で構成した「警視抜刀隊」(現在でいう警察官)を投入し、
戦況を新政府優位へとしていきます。
戦いの終盤、山縣は西郷に自決を促す手紙を送っています。
しかし山縣の願いは届かず、しばらく戦いは続きます。
西南戦争終結後、山縣は自決した西郷の亡骸を確認し、涙したと伝わっています。
その後は軍のトップを務めながら、
第3代・第9代の内閣総理大臣に就任し
後には元老として、政治の中枢に携わっていくことになります。
大正末期まで生きていますので、
その当時にしては、長生きをしています。
  椿山荘を造園
山縣には、西南戦争鎮圧の功績をたたえて政府から賞金が渡されます。
その賞金で東京の文京区関口に土地を購入し、私邸の建設を始めます。
ここは、かつて「つばきやま」と言われていたことから、
山縣は「椿山荘」と命名します。
~山縣が椿山荘と命名した際の感慨を刻んだ石碑~
~椿山荘主 山縣有朋とあります~
山縣は軍人ですが、私生活では根っからの庭園好きで
自宅の建設と共にすぐ、有名な庭師を使って造園に取りかかります。
この時造園されたのが、現在の「椿山荘」の庭園です。
~庭園の全景~
現在の椿山荘は、結婚式場として有名ですよね。
実際、訪問した当日には結婚式の前撮りを撮っている方も
いらっしゃいました。
この庭園は、その土地の自然を活かした「近代日本庭園」の代表作であり、
従来の日本庭園とは一線を画しているそうです。
そして、この「椿山荘」と京都の「無鄰菴」、小田原の「古稀庵」は
「山縣三庭園」と言われ、近代日本庭園の傑作といわれています。
この椿山荘の庭園は、一説によると、
故郷「萩」の街並みを再現していると言われています。
しかも現在、バンケット棟がある場所に山縣は邸宅を建てていたそうですが、
この場所は萩の街でいう、山縣有朋の生誕の地に位置するそうです。
~ホテル椿山荘 東京 公式パンフレットより~
これには、確たる証拠はないですが、
遠く離れた東京で生活を送っていた山縣にとっては
故郷を思い出す唯一の場所だったのかもしれません。
他の山縣三庭園、「無鄰菴」「古稀庵」も似たような設計だったといわれています。
内閣総理大臣就任中には明治天皇や政府の役人を
招いて、この椿山荘で国家の重要会議を開いていたようです。
その後大正7年、同郷の藤田財閥二代目「藤田平太郎」に
庭園を譲り与え、昭和27年に結婚式場として開業します。
これが結婚式場として有名になる起源になります。
現在はホテルも併設しており、
「ホテル椿山荘 東京」として営業しています。
園内には、「つばきやま」の名らしく、多くの椿の木が植えられています。
もともと「つばきやま」と呼ばれていましたが、
故郷の萩にも多くの「椿」に関連するものがあり、
椿山荘と命名した山縣の故郷を思う気持ちを感じられます。
現在の椿山荘には全国からの「椿」も植樹されております。
椿の花が咲くころには、各地の椿が楽しめます。
  最後に
山縣には徹底して政党政治を排除し、軍部の勢力を政権内でも強くして、
日本を軍国主義に導いた、張本人といわれ、批判もしばしばあったそうです。
確かに、山縣を調べると「悪役」なんて評されることもありました。
しかし、最近の研究では、意外にも開戦前の山縣は
誰よりも慎重派だったと言われるようになってきます。
読書を好み、庭園を好み文化人の側面もみせて
軍人の印象を少し変えたともいわれています。
明治初期から大正の末期まで、
常に緊張感張り詰める軍部のトップにいた山縣にとっては
故郷に似せた椿山荘など、大好きだった庭園を眺めることが唯一の
癒しだったのかもしれません。
「椿」の花は今からが見ごろを迎える、
冬に咲く貴重な花です。
紅葉のシーズンは終わってしまいましたが、
本格的に寒くなる冬こそが「椿山荘」のシーズンです。
是非、皆さんも訪れてみてください。
今回もお読みいただきまして、ありがとうございました。