一般コラム
街紹介

<千代田区>歴史と都市の共存 ~江戸城の外堀地域「紀尾井町」~

<千代田区>歴史と都市の共存 ~江戸城の外堀地域「紀尾井町」~
皆さん、こんにちは!
関東地方は最近、曇りか雨続きで
太陽が恋しくなってきますね。
朝は最近、ぐっと気温も下がって
秋を感じられるようになりました。
今年は本当に最近まで暑かったですけど、
都内の学校ではインフルエンザなども流行しているようなので、
季節は着実に進んでいますね。
季節の変わり目が一番体調を崩しやすいので、
皆さんもお気を付けください!
さて、今回は私どもオークラヤ住宅の本社ビルのすぐそば、
「千代田区:紀尾井町」
周辺ををご紹介します。
今回は特定の人物のゆかりではありませんが、
東京の中でも歴史を感じられる地域ですので、
ご紹介していきます。
紀尾井町は江戸城の外堀地域に属し、当時の江戸城の面影も残しながら、
高層ビルも建ち並ぶ昔と現代が織り交ざった街です。
【目次】

 ・現在の紀尾井町は?

     

 
紀尾井町は千代田区の西部に位置し、港区の赤坂地域や新宿区(四ツ谷方面)に
接しています。区内では麹町や永田町と接し、山手線を円とすると、
ほぼ中心に位置しています。
 
現在の紀尾井町周辺は、ホテル界の御三家の一つ「ホテルニューオータニ」や
旧赤坂プリンスホテルの跡地に建つ「東京ガーデンテラス紀尾井町」などの複合施設
などをはじめ、様々なオフィスや大学などが建ち並ぶ街となっています。
昔は緑が多い住宅街でしたが、1975年以降は開発が進み、
現在のホテル・ビルが建ち並ぶようになりました。
紀尾井町の街並みは北側(麹町側)は昔の街並みのように細い路地が多く、
南側(赤坂側)では高層のホテル・ビルが建ち並ぶ街となっています。
紀尾井町はそんなに大きな街ではありませんが、
北側と南側でかなり様相が変わってきます。

 ・紀尾井町の由来

紀尾井町は江戸城に近い外堀地域でしたので、武家屋敷街として
発展し、特に徳川家に近い大名が屋敷を構えており、
幕府の要職に就いていた者が住んでいました。
中でも、紀尾井町の名前の由来にもなった「紀州徳川家」「尾張徳川家」
「彦根藩井伊家」といった江戸幕府の中枢を担う大名が屋敷を連ねていました。
そして明治5年、その武家屋敷から一文字ずつとって「紀尾井町」と名づけられました。

※国立国会図書館デジタルより「江戸切絵図 外桜田永田町絵図」
拡大版はこちらからご覧ください。江戸切絵図
この画像は江戸時代後期の江戸城外堀地域の地図です。
画像の下部は赤坂、溜池地域・上部には桜田門・半蔵門があります。
赤で囲った箇所が現在の紀尾井町です。
地図を見ても分かるように、この三家の敷地の広さは
他のものと比べても、かなり大きなことが分かります。

 ・紀尾井町にあった武家屋敷

紀尾井町の名前の由来にもなったように「紀州徳川家」「尾張徳川家」「彦根藩井伊家」
といった有力大名が屋敷を構えていました。
この紀尾井町ですが、なぜここまで有力な大名勢が屋敷を構えたかというと、
江戸城に近いのはもちろんですが、この辺が高台に位置していたことも理由の
一つだそうです。地盤が強固だったのでしょう。
御三家は江戸政治の中枢を担っているので、
城に近く強固な地盤な土地に屋敷を構えていた
これが通説のようです。
さて、屋敷跡を細かく見ていきましょう!
紀州徳川家
 
徳川家康の十男、徳川頼宣に始まる家で江戸幕府8代将軍「徳川 吉宗」や
14代将軍「徳川 家茂」を輩出した、徳川御三家の一つの大名で、
唯一将軍を輩出した徳川御三家です。
明治維新後も戦前までは日本屈指の富豪として、かなり力を持っていたようです。
現在跡地には、「東京ガーデンテラス紀尾井町」が写真のようにそびえ建ち、
全く面影がございません。
しかし、赤坂見附の交差点には当時の江戸城の石垣がまだ残っており、
弁慶掘と一緒に見ると当時の雰囲気が残っているように見えます。
ここは当時の江戸城がわかる、貴重な場所と言われています。
尾張徳川家
こちらも徳川御三家の一つで、家康の九男、徳川義直に始まる家です。
              
かつては徳川御三家の中でも一番の石高を誇り、御三家の筆頭でしたが、
将軍継嗣問題で紀州の吉宗に敗れたこともあって、
その後は勢いを見せなくなります。
さらに、将軍家からの養子の受け入れや安政の大獄によって
当時の藩主、慶勝の謹慎・隠居など、幕府に対する不満は募る一方。
とうとう明治維新では、まさかの新政府の味方をすることになります。
ただし、これには尾張徳川家が勤王家だったからという説もあります。
勤王といえば、水戸徳川家を思い出しますが、
水戸徳川家はあくまで佐幕派だったことを考えると
歴史はおもしろいものだと思います。
現在跡地には、上智大学がキャンパスを構えており、
こちらも残念ながら石碑のみとなっています。
その後、尾張徳川家は明治維新の功績もあって、
当時の藩主は愛知県知事に任命されています。
 
彦根藩井伊家
徳川御三家ではありませんが、
江戸幕府の譜代大名(幕府の要職に就ける大名)の
筆頭として、かなり徳川家に近い家柄でした。
徳川四天王の一つと言われています。
昨年の大河ドラマ「おんな城主直虎」をご覧になった方も多いと思いますが、
これは井伊家が徳川家で重用されるまでの物語でした。
井伊家で有名なのは、桜田門外で暗殺された、大老「井伊直弼」でしょうか。
彼が行った安政の大獄によって、多くの人が粛清されました。
それほど実権があったということですね。これが原因で暗殺されますが、、、、
屋敷跡地は尾張徳川家の南隣に位置し、「ホテルニューオータニ」の敷地内に
石碑が建っており、ほぼ現在のホテルニューオータニの敷地と一致します。

 ・紀尾井町で起こった悲劇とは

紀尾井町と命名されてから、約5年後の明治11年、
明治政府の内務卿であった大久保利通が暗殺されます。
霞が関にあった自宅から、当時の仮の皇居(現在の東宮御所)に向かう途中に
この紀尾井町清水谷付近で不満を持った士族から暗殺されます。(紀尾井坂の変)
当時の大久保は現在でいう内閣総理大臣クラスの
役職ということもあって、衝撃を与えました。
盟友の西郷隆盛が西南戦争で亡くなって1年後のことでした。
暗殺に携わった士族はその後すぐに自首します。
暗殺理由は、当時の政治的腐敗を理由としていましたが、
大久保自身は潔白な政治家で私財を公共事業に使うほどの
政治家といわれていました。
この事件を機に、政府の要人が移動する際には
警護が付くようになります。今でいう「SP」でしょうか。
大久保の葬儀は当時最大級の葬儀が執り行われ、
1200人の方が参列したといわれています。
現在は清水谷公園として整備されており、
都心ながら木々が多く茂っており、平日のお昼には
付近のサラリーマンが時間を過ごしています。
その公園内には大久保を偲ぶ非常に大きな石碑が建立されています。
 ・最後に
私は4月に本社に転勤してきましたが、
今まで紀尾井町界隈を散策したことはありませんでした。
紀尾井町は、もともと江戸城の外堀地域として、発展していたことは
江戸時代後期の地図からも分かりますね。
しかし、幕府が倒れて近代化されて以降は
その歴史的な屋敷街としての役目を終えて、
現在はオフィス街となっています。
今回訪れた、3つの屋敷も石碑のみで
面影は全くありません。
東京の都市開発の凄さが分かります。
さらにシンボルであった「赤坂プリンスホテル」さえも建て替えられて
新たなビルへと変化を遂げています。
一方、江戸城の石垣は現在までも残っており、
徳川幕府の「江戸築城」の壮大さも感じることが出来ます。
発展を続ける紀尾井町ですが、歴史と現代が織り交ざった都内の貴重な地域です。
お仕事などでお越しになった際は少し歩いてみてはいかがでしょうか。
今回もお読みいただきまして、ありがとうございました。