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<世田谷区>明治維新の立役者を輩出した吉田松陰が眠る地「若林」

<世田谷区>明治維新の立役者を輩出した吉田松陰が眠る地「若林」
皆さん、こんにちは!
8月も残りわずかとなりましたが、残暑が厳しいですね。
今年は暑い期間が長い夏になりました。
熱中症が世間を騒がせた今夏ですが、
やはり今年も甲子園は夏を盛り上げてくれました!
18日の試合は開門前の午前5時40分に満員通知が出たそうで、
甲子園最速を記録したそうです。相変わらずの人気っぷりです。
私は野球が好きで、実家も福岡ヤフオクドームに近いことも
あって、小さい頃は良く観戦に行きましたが、最近はめっきり減っています。
やはり、聖地「甲子園球場」での観戦は必ず達成したいものです!
しかし、奥さんは全く野球には興味がなく、娘は生まれたばかり、、、
しばらくは行けそうにないですね、、、
少しでも娘が興味を持ってくれればと願うこの頃です。
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さて、第4回目の場所は
東京都世田谷区「若林」周辺です。
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 現在の世田谷区若林は??
世田谷区は人口約90万人で23区第1位
面積は大田区に続いて、第2位を誇ります。
そんな中でも「若林」周辺は世田谷区の北東側に位置し
周辺は世田谷区役所や国士舘大学がキャンパスを構えていますが
やはり住宅街」といった印象です。
交通は「東急世田谷線」が走っており、
豪徳寺乗り換えで小田急線経由で新宿方面に
三軒茶屋乗り換えで田園都市線経由で渋谷や大手町まで
アクセスすることができます!
しかし!この「東急世田谷線」ですが、なんと2両編成
路面電車のようなスタイルで運行されています。
走っている電車を見ましたが、結構な乗車率!
のんびりと思いきや、車内は混み合っているようです。
 若林にゆかりのある人物とは????
吉田 松陰
(1830年~1859年)
吉田松陰は1830年に長州(現在の山口県)に生まれます。
幼少期から、いかんなく秀才っぷりを発揮し、
なんと9歳には藩校「明倫館」の兵学師範に就任しています。
吉田松陰を有名にしたのは、彼の叔父が開いた
私塾「松下村塾」で教鞭をとっていたことでしょうか。
後に有名になるお話ですが、この私塾からは明治維新の立役者
初代首相の伊藤博文を始め高杉晋作、山縣有朋などを輩出することになります。
吉田松陰には写真がなく、肖像画でしか「顔」が分かりません。
ご覧になった方はお分かりになるかと思いますが、
「凛々しいおじいさん」といった印象を持たれるでしょうか。。。。
一度検索をしてみてください。
松陰は勝手に黒船に乗り込んで、捕縛されたり、
さらには、幕府が天皇の勅許を得ずにアメリカと通商条約を結んだことに激怒し、
クーデターを計画していたそうです。
幕府はこの松陰の動きに目をつけ、捕縛された後、
幕府の要人の暗殺を企てたとして、
「安政の大獄」によって、現在の東京都中央区小伝馬町で処刑されます。
吉田松陰は29歳で生涯を終えることになります。
正直、肖像画の「おじさんぶり」にびっくりしたのもありますが、
こんな若くして亡くなったとは、正直びっくりしました。
どうしてもイメージが先行してしまい、私塾の先生で、且つ後の
日本を背負う青年を育てた人だと習ってきたので、
歳もとっているものと思っていました。
安政の大獄で処刑された松陰の亡骸は
松下村塾の門下生、高杉晋作などによって、
この「若林」の地に埋葬されることになりました。
さらに門下生は吉田松陰の死を悼んで、明治15年、
この地に松陰を祀る神社を建立しました。
これが現在の松陰神社です。
なぜ、世田谷区若林に松陰神社があるかは、松陰の故郷、長州藩がこの地に
毛利家の「江戸別邸」を構えていたことが由来だそうです。
実際に松陰神社に行ってみましたが、
門下生が松陰の死を偲んで、石燈籠を建てています。
刻んである名前を見ると伊藤博文、山縣有朋、井上馨、、、
そうそうたるメンバーです。
松陰が亡くなった後、長州藩は窮地に立たされます。
松陰に感化された長州藩士が京都を焼き野原にし(禁門の変)
幕府や薩摩藩などと対峙し、勢いを失っていきます。
しかし、藩校「明倫館」で吉田松陰の教えを受けた一人「木戸孝允」が
薩摩との「薩長同盟」を成立させた後は一気に倒幕へと突き進むのでした。
そして吉田松陰の死から8年後、いよいよ明治が始まり
日本も近代へと突入していくことになります。
松陰神社の本殿の脇には、吉田松陰のお墓があります。
(実際に亡骸が埋葬されています。)
このお墓は、禁門の変(1864年)後の長州征討で幕府によって破壊されてしまいます。
しかし明治元年(1868年)、木戸 孝允(桂 小五郎)らによって修復されます。
約4年後に徳川の時代が終わって、やっと修復できたのですね。
最後に、、、、
29歳の若さでこの世を去ってしまった吉田松陰ですが、
石燈籠があるように、死後から現在に至るまでも
多くの方に慕われています。
私は現在、松陰が亡くなった29歳です。
とてもとても、松陰ほどの存在ではないですが、
同じ29歳でも松陰のように、大事を成したり、大きな影響を与える
仕事をした人がいることを知ると、驚きと感心に加えて自分も
しっかりしようと戒めの気持ちも湧いてきます。
幕末の志士たちは、若い年齢で大きな役割を担っていました。
当時の年齢を知るのも歴史を学ぶ楽しさの一つだと思いました。
是非、皆さんも街めぐり(お出かけ)と共に、
その地のゆかりの人物を調べてみてください!
ありがとうございました。